昭和44年10月12日 朝の御理解
御理解 第76節
「人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。」
教祖様の御一生を思わせて頂きますと、この人が助かると云う事だけに焦点を置いておられる気が致しますね。それは段々、御信心がお進みになられれて、人が助かる様になり、こういう有り難いお道を、教祖様御一人でお終いになったんじゃ勿体無い、相済まん。 そこでこれを、一つの宗教団体ですかね、いわゆる一派を成す所の働き。そう云う事を、より良い直信の先生達が考えられましてね。その事を、佐藤宿老ですね、佐藤範雄という先生が金光様に、教祖様にその事を申し上げられますと、教祖様が仰った。
この方は、人が助かる事さえ出来れば結構であると仰ったそうですね。この方は人が助かる事さえ出来れば結構である。例えてまあ言うと、様々なその組織を作ったり、機構を作ったりと云う様な事をしなくても、人が助かる事さえ出来れば結構であると。それがその今、教会でも言われておりますけれども。組織を持たなければならん、組織を作らなければならん。教会の発展、でなかったら発展しない。だからどの様な風にして作るかと。まあそう云う事が、よりよい話に出るのです。
ところが、組織を作るにもですね、例えば信者がいなかったら組織作られませんものね。僅ばかりの信者がおるので、組織を作ろうと言っても出来ません。ですから先ず私は、あのいわゆる、この方は人が助かる事さえ出来ればと仰る、その人が助かると云う事にです、その組織を作ると云う事よりも、焦点を置かなければ駄目だと。ここの場合でもそうでしたよね、段々、段々人が助かって来る。初めの間は、総代さんもなからなければ、幹部と言った様な物もなかった。けれども、人はどんどん助かって行った。
一年目の御大祭の時に、御大祭と言うても、私が一人でお祭を仕える。それでも参拝者はいっぱいである。もう午前中と午後と、二回にお祭仕えんならん位で、椛目狭いですからね。その時にお祭が段々進んで参りましてから、その信者さん方が代表で玉串を上げなさらにゃいかん。だからその前におんなさる方達だけで、代表で玉串上げて下さいと、私がお祭をそこに、神様の前からそう言うた。
丁度その前におんなさったのが、今考えますと、秋永先生、亡くなられた三橋先生はまだ後からじゃったですか、久保山先生、久富先生ですね、上滝さん。とにかくここの初代の、一番初代の総代さん方です。それが丁度その、ズラッと並んでおられたんです。だからあんたどんが、ならもう総代、是から総代としておかげを頂きゃ良かたいと云う事から、もう誰が決めるともなしに、その一番初めのお祭の時に神ながらに、玉串を上げられた方達5人が当時の椛目の神愛会の総代でした。
そう云う様な事から、神愛会のだんだん、杉さんでしたかね一人は。それで丁度5人になりますが、色んな機構神愛会のそれを作られましてね。いわば組織が出けたんです。合楽に、こちらに移らせて頂きましてもそうで御座います。ここの機構が素晴らしく、まあよく出けてるというて、皆さんから言われます。まあ素晴らしいとは思いませんけれども、まあおかげでその一つの組織を作る作るのにも、まあ作れる人間、その第一まあ人間があると云う事がですね、有り難い。
ですから、機構を作らにゃ、組織を作らにゃ発展せんてその、組織の方から、機構の方から先に作ろうと言ったって、肝心要の人間がいないと。助かって行く人達がいなければ、組織も出来ません。私は、これは確信する所ですけれども、本当に人が助かってさえ行けばいいと思うです、組織はいらんと思うです。これは私の考えですよ、それでも助かって、助かって行く人達がです。
矢張り止むに止まれん願いと思いからです。是だけの人が集まって来る様になったから、矢張り整然とした一つの組織と言う様な物がなからなければ、何かに付けて便利が悪い。だからお願いをされて組織が出来る。是は私の考えとしてはもうとにかく人が助かりさえすれば、それで良いと。是は教祖様が人が助かる事さえ出来れば良いと仰っとるのは、組織を作らんで良いと仰ったのではなくて、先ず組織を作るにしてもその部門、部門で適当な、適材適所と言った様な人物が現れない事には。
詰らない事になって参りますからね。ですから矢張り人が助かる事さえ出来ればという願いを、私は立てなければならんな、思わなければいけんと思うのです。信心をさせて頂くなら、ここへは、人間は人を助かる事が出来ると仰ってるものが、これは信心をさせて頂く、そして人を助ける事の出来る程しの信心を頂かなければいけんと思うです。しかもその、助かる事が出来るのは有り難い事ではないかと、こう。その事が有り難いと分からなければいけん。これは、先ず自分自身が助かっとらんと。
だから助けられませんですね。自分自身が助かっておると云う事はどういう事だろうか。この助けるという前にこの75節のとこ初めの所に。人を殺すと言うが心で殺すのが重い罪じゃと仰る様に。助ける所か人を殺しておる様な事でですね、私はよう人を助ける事は出来んと思う人を殺しておるんですもの。人を殺しておってから助ける事なんか出来る筈はない。勿論その叩いて殺すとか切って殺すというのじゃないです。
心でと仰るですからまあ一つこう言う所からですね、人の助かる事さえ出来ればと言う前に助かる所か、相手を殺しておる様な事はないかと言う所から、人を殺さんで済む私になって行かなきゃならんと云う事になります。一言の物を言うでも何か突く様に刺す様に言う人がある。自分はその気じゃないけれども相手にそれが大変な皮肉に聞こえる事がある、その内容がそうですその人が言うておる、そのいわゆる人の心を暗くしたり人の心を言わば殺したりする様な事は、自分にはないだろうかと。
先ず、そう言う所から人を助ける前に、人を殺す心を、一つ改めて行かなければいけんと思いますね。うかつに申します言葉が相手の心を真っ暗にする様な事があります。矢張りその内容から生まれて来る。何げなしに言うておるその言葉が、相手の心を明るくし。相手の心が助かる。そういう結局、内容という物を、まず頂かなきゃならん。いわゆる、自分自身が助からなければ、助ける事は出来んという事が分かります。先日、ご主人が非常に酒癖が悪いというお届けを、ある方がなさった。
だからもう、飲まんごっ、飲まんごたる風にいっちょお願いして頂けんでしょうかち言うて。飲むだけなら良うございますけれどもですね、その非常にこの、酔狂の悪い人です。酔狂が出る。もう私はまあ家内だから良いけど、子供達が難儀をするその為に周囲の人が迷惑をする。飲まん時は仏さんのごたるけれども、一端お酒が入るとそう言う様な、その人がやっぱりありますね。
そん時に私が頂いた御理解がですね。わが身を抓って、人の身の痛さを知れと云う事であった。わが身を抓って人の身の痛さを知れと。一つ、わが身を抓って見なきゃいけませんよ。成程あなたは酒は飲まんかも知れません。けれども貴女はその、甘い物には目がないと言った様にですね。その甘い物が目の前に出たら、それこそ手が震う様にその甘い物に手が行く様な、例えば、例えばですよ。
そういう様な事がありゃせんかと、私が申しました。その人は別に甘い物が好きという訳じゃないですけれどもです。本人も、まあ少しは信心があるのですから、時々お話を頂いておりますから、はあお話を頂くと、ここを改まなければいけんと分かっておりながら、貴女自身が改められんでおる所が、ありゃしませんかと。例えて言うなら、甘い物が好きだ。甘い物を見ると、もうそれこそ、もう恥も外聞もなかごとなる。
甘い物には目がない。例えば甘い物がアンタ、好きという意味じゃないけれども、そう言う様な物が貴女の心の中にもありゃせんかと、私が申しました。わが身を抓ると云う事は、そういう事ですよと。ご主人が矢張り素面の時には、本当にそう思いよんなさるじゃろうと。自分の素面の時には人からも好かれるし、大事にされるけれど、一端お酒が入るとこんな状態になって。改めよう改めよう、酒の量も少なくしよう、止めようとまで思いなさる事もあろうと。
けれども、一端そこに酒が目の前に出て来ると、二合が三合になり、五合になるという風にして、その切りがない。そすと、日頃の鬱憤がぽちぽち出て来て、もうその嫁さんが居りゃ嫁さんに言う、子供達がおりゃ子供達にその、日頃は言いきらんおとなしいから。それが出て来る。それが、ねっちりねっちり出て来るもんですから、やりきれない訳なんです。そこでその、奥さんがまあ、わが身を抓る事になった訳です。
本当に主人にばかりは、飲まんごととか、改まる事とかと、こう言うて、自分は改まろうともしない。自分は止めようともしない。貴女ばかりには苦労はさせん、私も修行致しますから、貴女も修行して下さいと言うなら話は分かるけれども、ただ酒を飲むな、酒を飲むな。いわゆるわが身を抓ってみてです。なら自分もそれを改まろうと思っておるけれども、改まれない自分というものを思うてです。
さあ酒をくれ、酒が欲しい、酒が入ったら日頃の鬱憤をボチボチ出しだす。だからねそうもあろうと云う風に、段々この頃分かって来た。たまには、ああして飲むごつもあろう。飲んだなら、やっぱりそのぐぜり事の一つも言おうごたろうと。主人の気持ちが分かって来た、自分が改まっ、改まれた訳じゃないけれども、まあわが身を抓った。自分も改まられんもんじゃから、主人が改まられんのも、またそうもあろうと。言わば同情が湧く様になった、主人のその酒飲む事に対して。
もう先生、手の平を反すごたった。「海の大和」じゃないけれどもですね、非常に機嫌が治った。ぐぜらんごとなった、と言うて先日お礼お届けがありました。そのお母さんのその、わが身を抓って人の痛さを知った所からです。そこに、人が助かって来た。酒飲みながら機嫌良う飲めれると云う事は、こんな有り難い事はない。飲みながらぐぜらんならんちゅう事は、本人も術ない、主意はなお術ない。わが身を抓って人の身の痛さを知れと。その事は今日の、人を人間は人を助ける事が出けると云う事。
これは色んな意味にそれを頂けれると思うんです。その人の身になってみたら、そうもあろうという思いです。これは色んな事に、それはあの勝気な人だから。あの人になって見りゃあ、あげんもあろうとか。あの人は反対にお人良しだから、やっぱ、ああもあろうと。もうアンタばっかりは、もうグズグズしてからち言って、もう人の心を殺すような事。もう性分だから。あの人で、なって見たらです、そうもあろう。
あの人は頭が悪いから、なかなかさばけん。その人の気持ちになってみたら、一生懸命しよるけれども人並みの事が、いわば出けん。その人の身になって見たらそうである。そうもあろうと。そこんところに、私は人が助かる。同時に自分自身が助かっとるから、そういう風にわが身を抓るだけの余裕がある訳です。矢張りわが身をつねる、一つのゆとりが先ず必要である。
そこには、自分が助かると同時に、その人も、相手の人も助かっておる。そういう考え方が出来るのが人間なんです。人間は人を助ける事が出けると仰っておられるのは、そういう考え方が出来るのは人間。牛やら馬やらは、そういう考え方は出けんのだ。それは犬でも猫だって、牛だって馬だって、やっぱり子供は可愛いらしい。やはり親子の情っていう物もあるらしい。
鶏なんかでもそうでしょう。ヒヨコの方へいたずらでもしたら、親がもうこう気違いのごとなってから人間におしかかるでしょうが。ですから、そう私は其処ん所はね、あの人間は人を助ける事が出来ると云う事はね、そういう考え方が出来ると、話を聞いたら。主人が飲むから、酔狂回すから、どうぞおかげ頂きますようにと言うて、お願いをさせて頂くだけではなくて、頂いた御理解が。
わが身を抓って人の身の痛さを知れと。お父さんになって見りゃです、もうそれは飲まなければおられぬのであるしね。飲んだら日頃の鬱憤も言わなければおられんのである。だから、お父さんになって見りゃあ、そうもあろうとこう、そういう思い方が話おきに出来る様になった訳。自分自身も甘い物に手は出しちゃならんと。ずいぶん言い聞かせよるけれども、甘い物が目の前に出てくると、もう手が震う様にある。
これは決して甘い物という意味ではないですよ。自分の心の中に改まろうと思うけれども、どうしても改まられないといったような意味のことなの。お父さんに改まれ、改まれと言うて自分自身もこんなに改まられないのだから、お父さんにしてみりゃあ、そうもあろうと、言うなら思うただけでです、改まってもおらんとですよ、思うただけで。わが身を抓って、人の身の痛さが分かって来た。
分かって来たら、お父さんが手の平を反すように、もうそれから14~15日になりますでしょうけれど、まだ一回も酔狂を回さん。酒の量もちった減ったごとある。と云う様なです、そこにおかげが現れておる。自分の身を抓るゆとりが出来たのだ。そしてそこから、そういう考え方が出来る。それが人間は人を助ける事が出来ると言うのは、そう云う事だと私は思う。私共それが出来る。だから其処の所の考え方がです、出来るおかげを頂かなきゃなりません。これは酒を飲むとか飲まんとかじゃないです。
主人が分からんの、家内のは分からんのと、こう言うけれどです。お前はどうして、そげん分からんかち言うて、もう相手の心を殺してしまっておる。はあ私はどうせ出来ませんよち言うちから、もう夫婦喧嘩の元が出来る訳です。だからこの人になって見りゃ、そうもあろうと、私は分からにゃいかん、そういう考え方が出来なければ。そこからですね、出来ない事に対してです。勿論祈るだけではなくて、本当に気の毒だなあと言う様な、神心が湧いて来るです。
私は何時も家内に、家内と私の自分の事でそれを感ずる事があるんです。お前は物言い道も知らんでって。もうだから自分なもう物言いきらんと思うて、ちゃあんと引っ込んでしまう。いわゆる私がそう言うともう心が暗くなってしまって、愈々物を言う事に対しておっくうになってしまう訳ですね、だったんです今まで。けれどもやっぱり人ん前にあげん本当に良うあげん、お話の出来なさる人達を見るとです。
羨ましいらしいです。あげん自分の思う、自由にベラベラ、ああお喋りち言うとこう、いかんですけれども。まあベラベラようお話が出来なさるち言う方が良いでしょうね。本当ですよ、もうこれは又、反対にベラベラ喋られても、ほんにいかんですもんね、ありゃあ。もうこの頃ですね、家の家内が良う喋らんとが有り難いなあと思う事があります。もう本当に十二分に喋りなさる人があります。
だからこれはもう、本当こうその人にとって見りゃあ、ああいうお喋りもしようごたろうという風にですね、まあ思わにゃいかんでしょうけれどもですね。あんまりにも、そのお喋りを聞きよると、こっちの心が暗くなってしまう。初めの間は有り難いと、面白いと思うて聞きよるけれども。終いには、はっは。だからお喋り過ぎても、やっぱその心を暗くしたり、殺したりする事がある訳です。むしろ私げん、家内のごと物は言いきらんぐらいな方が良かという事になる。同時にです、あの思うんですよね。
本当にそげんもあろうとこう思います。だから私はもう人を助けると言った様な事はです、もうそう金がなして困っちゃるけん、金を貸してあげるとか、与えるとか水にほううとに溺れござるけん引き上げてあげるかと言った様な事じゃなくてです。もうその手前の手前の所にね人を助けるいわば考え方っていう物があると思うんです。助ける所か人の心を暗くする人の心を殺す。本当に生まれつき物の言いきらん者に、気の利いた人の様にあげんも言え、こげんも言えと私が家内にそれを求めておった事が。
家内の何時も心を暗くしたり心を殺しておった。この頃はそれをもう段々思わんどころか、返ってそうもあろうとこう思う様になったらです、この頃やっぱ大分お話も出来る様になった様な感じがする。お前はもう物を言いきらんけん他所にゃ行くなっち、はっはっはもうよう言いよったんです。この頃はもう私の代行代わりに何処にでも、こうやります少し自信が出けて来たのでしょう。初めの間は殺しよった。
けれども本当に、もうそのワザと、その言いきらんとに、その言わんのじゃないのだから。と言う様な、例えば思い方が出来る様になりましたら、段々其処ん所が、おかげ頂いて。その事が、こちら自身も、もうお前ばっかりは物言いきらんと言って、その、イライラしたりモヤモヤしたりする必要が無くなって来た。先ずやはり自分が助からなければ、その人の身を。
人の身を抓ってわが身の痛さを知れっちゅうのじゃないですね。人の身を抓ってから、先に抓ってから、そういうはっはは。それはもう爽快。私の場合はもう言えばその、家内と私の場合でも、人の身を抓ってから言いよった訳ですたいね。家内の、家内のを先に抓ってから、後から思いよる。それじゃいかん、先ずわが身、先に抓らにゃ、抓らにゃいかん。先ずわが身を抓って、人の身の痛さを知れと。そういう考え方が出来るように、出来るのが人間であるという事。
沢山ありますよ、私共の周囲に。自分の思い方を変えたら、自分も助かりゃ人も助かるという生き方が。それがね、例えばなら、今の私が例を申しましたように。なら、自分はまだ改まっ、改まり出来とらんとですよ。ほんなこて、自分も改まりが出来とらんと。けれども、その自分が改まられんから、改まりきらんからお父さんが改まりきらんとも、そうもあろうと、こう思うようになった訳です。
思うようになっただけで、思いが変わっただけで、酒の量が少なくなる、酔狂も出さんごとなったというおかげがあるんです。これには、もうこちらが改まりどんしたら、もう本当に主人が、もう酒がいよいよ少量になったり、飲まんごつなったりするでしょうね、のようなお繰り合わせも頂けれるでしょ 私は今日は、人間は人を助ける事が出来るのは、有り難い。人間は、そういう考え方が出来るのは有り難いという事なんです、ここは。これは牛馬では出けんと云う事。
そういう考え方が出けれる人間でありながら、そう考えないで、相手だけを抓っておる様な事はなかろうかと。つねっておる時には自分も助かってない時、相手にも痛い思いをさせておる時。今日はそこの所だけに、私はこう焦点を置いて、人が助かると云う事についてね、お話をさせて頂いた。教祖様は、人が助かる事さえ出来ればと、こう言うておられます。ですから先ず、本当にこの身近なところを、うかつにしておる所にです、人の助かる術という物があるんだと。
はあ、本当にここにも、そういう考え方があったと言うような風に分からせて頂いたら、自分も助かる。そこから、その相手の人も助かる。そういう、おかげの頂けれる、信心を頂きたいと、こう思う。そう言う所が、基本的な物が出けてですね。矢張りあの、人の難儀を助けるのが有り難いと心得て信心せよという最後の所の、言わば、いよいよ本当の意味で助けられる所の力が頂けれる、と私は思うです。
只今私が申しました様な事に心掛けさせてもらう。そういう思い方が出けるのが人間だと分かって、そういう思い方をさせてもらう。その事が神の機感に叶う、神様のお心に叶う。それが、いつの間にか力になる。そういう力が出ける時、初めて一番最後の、人の難儀を助ける事が出来るのが有り難いと心得て信心せよと。病弱の人は力が出来る、健康になれるだろう。
経済に難儀をしておる人は、経済にも不自由せんで済むような、おかげを頂くだろう。そういう考え方によっ、そういう考え方をさせて頂けれる事がです、人間なの。だからそういう考え方をする事が、神様のお心に叶うのです。神様のお喜びが、こちらの力になって入って来る。不健康な者は健康になる、不経済、経済に難儀をしておる人は、経済が潤沢になって来る。
そこで初めてその自分の力という物を仰視する事が出来る。お金のない人に与える事も、貸す事も出けるでしょう。健康になった時に初めて人のに力を貸してあげる事も出来るでしょう。そこに一番最後の人の難儀を助けるのが有り難いと心得て信心せよと云う様な、所が頂けれる様になると思うんですよね。今日どうぞ一つ人間は人を助ける事が出来るのは有り難い。人間はそういう人が助かるような考え方が出来るのを、そこが有り難いと心得て信心させて貰わなきゃならんと云う事になります。
どうぞ。